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近所にバイクの修理屋があり毎日遊びにいっていた、
その影響でバイクには興味が強かった。
高校は夜学にいきながら、スズキバイクに就職。
卒業と同時にスズキを退社してそのままホンダに就職。
昭和33年ホンダ技術浜松工場入社
工場のバイク組み立てラインを担当。
組み立てのラインに対して多くの提案書を出し、工場長に認められる。
昭和35年(株)本田技術研究所(埼玉県和光市当時大和田町)に転籍。
開発部に異動。
テストドライバーを経験。
CB72を開発。
XLシリーズを開発。
CBX1000(6気筒)を開発。
XLシリーズの開発、CBX1000(6気筒)の開発、NR750の開発。
ブルーメルメットの設立
レース責任者をやっているときに木山健吾をレース中に死亡させる。
NR500のオールカーボンでの事故死。
レースから離れ開発部に行き、CB750Fシリーズを企画し認められる。
役員に昇進とUSAホンダに栄転
昭和45年~昭和55年本田技術研究所のアメリカ部門の設立に当たる。
(現 在R&D U.S.A)
渡米:アメリカ人と結婚、一人娘を授かる。
アメリカでマフラーの横流しが発覚し、責任をとり日本に帰国(浮気がばれて離婚)
アメリカの友人が亡くなりショックで創価学会にはいる
社内での活動を批判されて退社する。
昭和62年12月10日株式会社インターテック設立
再婚:16歳の女の子を連れた日本人と再婚
大宮と浦和にバイクショップ(インターテック)を開業。
ホンダで学んだ貧乏人から金を取るを見事に実践して、
売り上げナンバー1になり、ホンダから表彰される。
その影響でバイクには興味が強かった。
高校は夜学にいきながら、スズキバイクに就職。
卒業と同時にスズキを退社してそのままホンダに就職。
昭和33年ホンダ技術浜松工場入社
工場のバイク組み立てラインを担当。
組み立てのラインに対して多くの提案書を出し、工場長に認められる。
昭和35年(株)本田技術研究所(埼玉県和光市当時大和田町)に転籍。
開発部に異動。
テストドライバーを経験。
CB72を開発。
XLシリーズを開発。
CBX1000(6気筒)を開発。
XLシリーズの開発、CBX1000(6気筒)の開発、NR750の開発。
ブルーメルメットの設立
レース責任者をやっているときに木山健吾をレース中に死亡させる。
NR500のオールカーボンでの事故死。
レースから離れ開発部に行き、CB750Fシリーズを企画し認められる。
役員に昇進とUSAホンダに栄転
昭和45年~昭和55年本田技術研究所のアメリカ部門の設立に当たる。
(現 在R&D U.S.A)
渡米:アメリカ人と結婚、一人娘を授かる。
アメリカでマフラーの横流しが発覚し、責任をとり日本に帰国(浮気がばれて離婚)
アメリカの友人が亡くなりショックで創価学会にはいる
社内での活動を批判されて退社する。
昭和62年12月10日株式会社インターテック設立
再婚:16歳の女の子を連れた日本人と再婚
大宮と浦和にバイクショップ(インターテック)を開業。
ホンダで学んだ貧乏人から金を取るを見事に実践して、
売り上げナンバー1になり、ホンダから表彰される。
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浜松の寿司屋の次男として1939年07月30日に生まれる。
大変に貧しい時代でしたが親父がすし職人なだったので食べることの苦労はなかった。(感謝)
幼年期はケンカの毎日でガキ大将だった。
ケンカに負けて帰ると、歳の離れた兄が相手をボコボコにしてくれていた、
兄が居たからこそいじめられる経験はなかった。
自分の子分には、客の食べ残した寿司を分けていた(面倒見がよかった)
この頃の友人とはいまだに付き合いがある。
小学校で国語の先生に英語を学ぶ。
これが後に海外進出につながる。
大変に貧しい時代でしたが親父がすし職人なだったので食べることの苦労はなかった。(感謝)
幼年期はケンカの毎日でガキ大将だった。
ケンカに負けて帰ると、歳の離れた兄が相手をボコボコにしてくれていた、
兄が居たからこそいじめられる経験はなかった。
自分の子分には、客の食べ残した寿司を分けていた(面倒見がよかった)
この頃の友人とはいまだに付き合いがある。
小学校で国語の先生に英語を学ぶ。
これが後に海外進出につながる。